新庄教会画像
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平成24年4月15日 「十字架リレー」






















































































































































































御堂に向かう私達一人一人に何が運ばれてきたのでしょうか?
ミサが始まり多人数の中で暖かい家族の中に埋もれそうな思いで終わりました。新庄教会の4名の方の発表がありました。来日から15年から24年の皆さんご苦労の様子が分かり神様からのお恵みを願わずにいられません。頑張れ!又、黒一点井上てつやさん、新庄教会と共に受洗2年目私達の頼れる存在です。

ダルクよりグループ運営への協力支援のお願いがありました。どうぞ目標に達成しますように。

昼食はカレーとサラダでした。皆さんに新庄教会の愛が入ってましたか?この十字架リレーで一つになれたでしょうか?私達の少しの努力でそれは可能なのではと思います。
神に感謝。(斉藤悦子)

斉藤悦子
十字架リレーについて
4月15日素晴らしい晴天の中十字架リレーが新庄に到着しました。
山形教会から36名の方々によって十字架とアルバムが運ばれてきました。山形教会沼沢会長さんに先頭に皆さんが坂を登って来られた時は胸が熱くなりました。

新庄教会が献堂されたら最初の受洗者になるという願いは、残念ながら叶いませんでしたが、教会の一員になれた事を嬉しく思っています。

新庄教会は妻も含めフィリピンの方が多いので、ミサ後の会話は8割方タガログ語ですから私にはほとんど理解することが出来ません。でも考えてみればフィリピンから来た方々は、最初は皆こんな感じだったんだろうなと思うと、日本の社会に馴染むのがいかに大変だったかわかります。 妻たちが苦労しながら日本語を覚えたように、私も少しずつタガログ語を覚えていきたいと思っています。 (井上哲也)

井上哲也

私が初めて教会に行ったのは、妻に誘われてミサに参列した山形教会でした。
その後も妻と共に新庄にある「わくわく新庄」の一室で月2回行われていたミサに度々参加するようになっていきました。最初はただ座っているだけでしたが、少しずつミサへの違和感も薄れていきました。
洗礼を受けるきっかけは、妻の妊娠でした。「子供が産まれたら、子供と一緒に洗礼を受けよう。」そう決心したのです。

日本に来ていろいろな大変な事がありました。子供を産んでから1カ月経った頃、私は病に倒れ1年程の入院生活を強いられたのです。日本語もまったく分からず、お医者さんや看護師さんとコミュニケーションを取ることもできず、そのことが病気以上の苦痛ともなりました。幸い子供の面倒はおばあちゃんが見てくれたのですが、産んだばかりの我が子と会うことが出来ない辛さは言葉で表すことは出来ません。主人が毎日のように子供のビデオを撮って病院に持って来てくれるので、それを見るのが私の毎日の楽しみでしたが、子供に会いたくて、会いたくて毎日泣いていました。

子供のために、早く病気が治りますようにと毎日、一生懸命お祈りをして・・・お陰さまで、今子供は14歳になりました。病気の時にとてもほっそりしていた私の体型も御覧のように、こんな体型になってしまいました。

こうして皆さんの前でお話し出来た事を神さまに感謝します。これからもたくさんの恵みがありますように。新庄教会を皆の力で守っていきます。ありがとうございました。 (沓澤エレサ)

沓澤エレサ

皆さんこんにちは。沓澤エレサと申します。また皆さんとお会いすることが出来て嬉しく思います。この場を借りて私の今までの経験を短く皆さんにお話ししたいと思います。

私が日本に来て15年目になります。家は夫とおばあちゃん14歳の息子と私の4人家族です。


私の今日までの人生を話せば一日でも足りません。ですから今日はほんの少しを短く話しますので聞いて下さい。

日本に来たばかりの頃、まったく日本語を話せない私はとても大変でした。お腹に子供が出来ましたが、この子を育てて行けるのか不安でした。でも子供のために一生懸命努力しました。でも長い月日の中で私は変わりました。今振り返れば、今の自分は、あの頃の自分と大きく変わりました。まず昔は地味だった私が、今はこんなに派手になってしまいました。何も知らなかった私が、良い事だけではなく、悪い事も覚えました。いろんな人に迷惑も掛けました。こんな自分になることを想像していませんでした。
日本に来て日本に慣れるまでも大変でしたが、もっと大変な事は、自分のしてきた事です。私は決して今ここに居るフィリピンたちと同じだとは思っていません。私は自分の人生で後悔するようなことを犯したのです。それでも家族や友達、周りの人は、私を変わりなく受け入れてくれたのです。そのことをとても感謝しています。こうして皆さんの前で自分の事を話すのを決して恥ずかしいとは思っていません。まだまだこれからです。希望は捨てません。自分が立ち直ることが出来るように神さまに一生懸命お祈りをして、いろんな事を乗り越えて頑張っていけたらと思っています。

いろんな人の協力で教会を建てることが出来てとても感謝しています。これからは皆さんと一緒に教会の様々な活動を共に協力しながらやっていきたいと思っています。これからもよろしくお願いします。ありがとうございました。(五十嵐真理)

五十嵐真理

皆さんこんにちは。初めての方もいると思いますので改めて自己紹介したいと思います。五十嵐真理と申します。家族は主人と主人の姉、24歳と22歳の息子との5人家族です。日本に来て今年で24年目となります。
日本に来た時には、日本語はまったく喋られませんでした。日本語を正式に勉強したこともない私が緊張しながらも、こうして皆さんの前で日本語で話せるのは、周りの方々のお陰と、人と人とのふれ合いがとても大事だったんだと思っています。
皆で手をつないで“アマナミン”(主の祈り)を歌っている。

日本語教室がきっかけで国際交流のボランテイアグループ(SMILE)でプロジェクトに参加し、いろいろな国の人達に会い、話しをする事が出来ました。この経験は私自身を考えさせてくれたようにおもいます。縫製会社勤務と家の近くのホテルでの勤務などを通して、育児だけでなく短い時間だけでありますが外に出ていろいろな人達と話をし、いろいろな考えや意見を聞くことができました。
人として成長するための一番良い方法は自分より優れた人達に囲まれることだと学べました。世界のなかでの一番の教室は年長者の足下にある。つまり自分より経験豊かな人生の先輩方の教えの事だと思いました。
18年前に母と家族から離れて、今は私が母親になりました。ようやく母親の気持ちをわかるようになりました。話学力の心配がありましたが自動車学校の先生方に助けてもらい運転免許証を取る事が出来ました。苦しみは必ず救われるものだと感じました。バブル経済後、勤めていた電気会社を解雇され落ち込んでいる時には、ありがたい事にいつも私がこのように落ち込んでいる時にはチャンスが訪れるのです。私を信頼しありのままの私を受け入れ助けてくれる人が必ず現れるのです。(例えどんな嵐にあったとしても神様と一生いれば必ず虹が待っている)。

少し息子の話を伝えたいと思います。それは中学校の卒業アルバムに書いてあった事です彼がハーフと言う境遇で生まれてたため、学校でいろいろあったけれども心の中の戦いを乗り越えて、最後に書いてあった事は、僕は生まれてきて良かったという事です。それを読んだ途端に涙があふれて止まらなかったです。本当に私にとって一番嬉しい言葉でした。一生忘れられない事です。
毎日の生活の中で一番大切なことは、自分たちより神様を優先する事だと私は信じています。神様に対して深い信仰心を持ち続ければ、神様は私を永遠にお導き下さる事でしょう。過去を思い悩まず未来の事は忘れる事なく、今日という日を一瞬一瞬大切にして生きていきたいと思います。 (橋見ジョシ)

橋見ジョシ

皆さんこんにちは。橋見ジョシと申します。フィリピン出身です。こちらに住んでだいたい18年になります。子供は二人います。高校3年生と高校1年生です。6人家族です。
日本に来たばかりの頃は自分の言いたい事を日本語でどのように言ったら良いかまったく分かりませんでした。とにかくすべての事を怖がらずに受け入れ、そして慣れていこうと努力しました。毎週土曜の夜市役所が開いてくれた日本語教室に18年前から現在まで通っています。

ミサが終わった後のお昼ご飯は
カレーライスとサラダで〜す。

ナイススマイル!