・年間第五主日(C年) ルカ5・1-11
(2月7日のミサより)

ルルド(*)は、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもと、フランスの南西部の小さな町です。
「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地ともなっています。多分、世界中で一番有名な巡礼地でしょう。

1858年、村の少女ベルナデッタが郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれています。
聖母はベルナデッタに

「そこを掘りなさい、水が湧いてきます。」

と言われ、ベルナデッタは硬い土を素手で掘り始め、地質学的に水の出るはずのない土地であるにもかかわらず、ひたむきに掘り続けると、水が湧いてきてました。
これがルルドの泉の始まりで、そこに大聖堂が建てられ、多くの人々が巡礼するようになりました。

そして、ルルドの泉に体を浸した巡礼者の病気が癒されたという奇跡が何例も起こり、厳密な調査の結果、それが本当に奇跡であることを教会が認めました。
それ以来、大勢の病気に苦しむ人々が巡礼に行くようになりました。

信じる人もいれば、そんな奇跡はあり得ない、それは自己催眠によるものだ、治るべくして治ったのだ等と批判する人もいました。



あるはずがない、しかし・・・

アレキシス・カレル(1873〜1944)は、フランスの医師で、リヨン大学で医学の学位を取得し、その研究のスタートをきり、現代医学の礎を築き、ノーベル生理学・医学賞をうけました。

彼は科学的探究をする人で、ルルドの奇跡を信じていませんでした。
そんなことはあるはずがないと確信しながらも、1902年、カレルは巡礼団付き添い医師として、聖地ルルドに向かいます。

ルルドに向かう汽車の中には、今にも死んでしまいそうな一目で重篤とわかる少女、マリ・バイイが母親に付き添われて乗っていました。
常識では、こんなところにきている場合ではなく、家で寝ていなければならないのに、ましてや泉に体を浸すなんて…と考えられる状態の少女でした。

ところが、ルルドに到着し、そこで重症の結核性腹膜炎の少女、マリ・バイイが聖水を浴びた途端にみるみる顔に赤みが差し、体に力が出て来て、急速にその症状が回復する、「説明できぬ快癒」を目の当たりにします。
その後、カレルはルルドに関心を持ち、カトリックの洗礼を受けています。



しかし、お言葉ですから

さて、アレクシス・カレルは今日読まれた福音書のシモンと共通点が見えます。

イエスはシモンに

「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます(4節)。

シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。
しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました(5節)。

シモンは漁師です。プロで、ゲネサレト湖での漁についてはよくよく知っています。もちろん大工のイエスよりも熟知しているのは当然です。

ゲネサレト湖では、夜暗いうちに漁をします。明るい時には魚はみな底の方に潜んでいて、夜になると魚が水底から上ってきます。それで、漁師たちは夜になると漁に出かけるのです。
一晩中魚を追って苦労したけど、その晩は一匹も捕れずに疲れきっているシモンです。もう漁は終わり、網の手入れをしています。
疲れているし、こんな明るい時には魚はとれないことは分かりきっていることだし…自分だったら、きっと「無理ですよ、イエス様、そんなこと。行っても何もとれませんよ。」と断ったでしょう。

シモンは「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えます。そして、「漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」のです。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足元にひれ伏します。
シモンはイエスと出会ったのです。



イエスと出会う場は!?

シモンがイエスと出会ったのは、自分の知識、経験、思い、考え、前例という枠から出たところでです。
アレクシス・カレルも優秀な医師としての知識、経験、考え等から一歩踏み出して、巡礼団付き添い医師として聖地ルルドに出かけた時に奇跡を通して主イエスと出会えました。

イエスと出会うためには、私たちが自分から出て行かねばなりません。
そこで、本物のイエスと出会うでしょう。イエスが待っておられます。招いておられます。

*ルルドの泉*

ルルドは、フランスとスペインの国境になっているピレネー山脈のふもと、フランスの南西部の小さな町です。「ルルドの泉」で知られ、カトリック教会の巡礼地ともなっています。多分、世界中で一番有名な巡礼地でしょう。

1858年、村の少女ベルナデッタが郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれています。ベルナデッタは当初、自分の前に現れた若い婦人を「あれ」と呼び、聖母とは知らなかったです。
しかし出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始めました。

聖母出現の噂は、当然ながら教会関係者はじめ多くの人々から疑いの目を持って見られていました。
ベルナデッタが「あれ」がここに聖堂を建てるよう望んでいると伝えると、神父はその女性の名前を聞いて来るように命じました。
名前を尋ねるベルナデッタに、ついにその婦人は自分を「無原罪の御宿り」であると、ルルドの方言で告げました。

これによって神父も周囲の人々も聖母の出現を信じるようになりました。
「無原罪の御宿り」がカトリックの教義として公認されたのは聖母出現の4年前の1854年だが、家が貧しくて学校に通えず、読み書きも満足にできない田舎の少女が知り得るはずもない言葉だったし、ベルナデッタは素直で嘘を言うような子ではなかったからです。

大人たちも一緒に御出現の場所に行くと、聖母がベルナデッタに出現されました。ベルナデッタにしか見ることができず、他の人達はベルナデッタが跪いてロザリオを祈るのが見えるだけでした。
聖母はベルナデッタに「そこを掘りなさい、水が湧いてきます。」と言った。ベルナデッタは硬い土を素手で掘り始め、両手が血まみれになっても止めようとしませんでした。
そこら辺の土地は地質学的に水の出るはずのない土地でした。それは誰でもよくわかっていることでした。それにもかかわらず、ベルナデッタがひたむきに掘り続けるうちに、泥水が少し湧いてきており、次第にそれは清水になって飲めるようになりました。

これがルルドの泉の始まりで、そこに大聖堂が建てられ、多くの人々が巡礼するようになりました。
そして、ルルドの泉に体を浸した巡礼者の病気が癒されたという奇跡が何例も起こり、厳密な調査の結果、それが本当に奇跡であることを教会が認めました。
それ以来、大勢の病気に苦しむ人々が巡礼に行くようになりました。