年間第26主日(C年)ルカ16・19-31

本物は?

 今日の福音を読んでいて、ある方から言われたことを思い出しました。その方は「本物の画家は、海や空を描くとき、青をあまり使わないものですよ。神父さん、宗教者もそうですよ。」と言われました。
確かに、“愛、愛、…”というのは本物ではないですね。教会の牧師や神父も“イエス、イエス…” “聖書、聖書、…”と言っているのは、どこか本物ではないな、宗教屋だなという感じがします。

 鶴岡教会にいた時のことです。鶴岡教会には大きな杉の樹がありました。クリスマスの頃にはクリスマス・ツリーになり、町の人々が見に来ていました。
ある日、教会の近隣の信徒が「神父さん、あの樹は素晴らしいけど、時々木の枝が落ちるのを見かけるんですよ、それも小さいのがパラパラではなく、大きい枝が高いところからバサッと落ちてるんですよ。幼稚園の園庭に落ちるから、子どもたち 危ないですよ。」と知らせてくれました。どんなかなと思って、見てみると、自分の肩にも大きい枝が落ちてきて、これは危ないなとわかりました。
そこで、信徒たちに、どうしたらいいだろうかと話したら、皆悲しんだけど、苦渋の判断をして、杉の樹を切ることにしました。すると、そのことが新聞やテレビに載って、大騒ぎになりました。そして、自分たちは緑を守る正義の味方だというような人たちが来て、ひどい言葉で攻撃しました。私たちがどれ程丁寧に説明しても、受け入れようとしない姿勢を見て、ああ この人たちは自分たちの正義、浅いところしか見えていないな感じました。青く見える海や空を描くとき、青しか使えないんだなと思いました。

福音の目で見るとは? ― 背景を思いやる心

 9月20日に仙台でオタワ修道会主催の講演会に行ってきました。講師は神言会の西神父様でした。中・高校の校長をしている神父です。西神父が“背景を見る”という大切なことを話しました。
ネコは、テーブルの上の秋刀魚を見て「美味そうだな」としか考えない。しかし、人はそれだけではいけないのです。人は秋刀魚を見て、海で命がけで漁をした漁師、その捕れた秋刀魚を夜通し走って市場に届けたトラック運転手、朝早くから働いている市場の人たち、その秋刀魚を店頭に並べて売っているお店の人たち、それを買って来てお母さんが料理する、そういう その先にあるところを見ないと、ネコと同じだと言っていました。
私たちは、今目の前に見えているものだけではなく、その先にあるもの、ものごとの背景を思いやって見なければ、真実は見えてこないのです。そういう福音の目を持たなければならないのでしょう。

今日、ルカ福音書ではラザロの話がとりあげられています。このラザロの話は、まさに私たちに今目の前に見えているものだけではなく、その先にあるもの、ものごとの背景を思いやって見なければならないよと、教えてくれているように思います。
ラザロという できものだらけの貧しい人が横たわっているのだけを見ると、この人は怠け者なんだろう、乞食が来た、としか見えないでしょう。私もそうとしか見ないでしょうね。でも、ラザロが物乞いしている、その先を読まねばならないのです。もしかしたら、ラザロは小さい時に親から離れざるを得なくて教育も受けられなかったために仕事に就くことができなかったのかもしれない、そんな背景が隠されているのかもしれません。ラザロの今の姿から、ラザロの人生を読み取ることが、聖書を読む上で大切なんです。それは現実の生活で人や物事と関わるときにも同様に大切なことでしょう。

事実と真実はちょっと違うと思います。人と出会った時、その人の表面だけではなく、事実だけではなく、その人の背後にある真実、その人の人生を読み取らなければならないのです。それは、簡単なことではないことですが、努力していきたいと思っています。

H22.9.26(文責 Y.T)