主の変容の祝日(C年)
*ルカ 9・28b-36

理想化

 随分前のできごとを思い出しました。中学の頃、学校の大掃除がありました。全校生徒が学校中を掃除しました。私は倉庫掃除になりました。その時、突然停電になり、倉庫内は真っ暗になり、怖くなり、大声で「誰かいるの!」と叫びました。
すると、女子生徒の声が返ってきました。二人ともお互いに誰なのかわからないけど、真っ暗で怖かったので、離れた所から声を掛け合い、ウマが合ってか、話しをして楽しいひとときを過ごしました。

間もなくして電気がついて、見てみたら、自分の思い描いていたようなことちがっていました。むこうも同じように思ったようです。そして、お互いに離れていきました。後で考えてみると、それは相手を自分の中で理想化していたんですね。

 そういえば、相手を理想化するというようなことが、人生の中でいろいろありました。この人はいい人だなあと思って付き合っていても、そのうちに違う面が見えてきたりします。その逆もありました。私が相手の方に理想化されているのを感じることもありました。「神父」というので、いい人だろうと理想化して見られ、自分はそんな人間ではない、欠点もあるんだと、心の中で言っていることがあります。

イエスの現実を見よう

 ところで、私たちの信仰は、イエスを見ることです。イエスへの愛であるはずです。それなのに、私たちは時々、イエスはこうだ、こうでなければいけないと、自分の思いの中でイエス像を作っていることがあります。
弟子達も同じでした。当時の大勢の人々もそうでした。イエスは自分たちをローマ兵から救ってくれる王であるはずだと思って、多くの人がイエスについて行きました。しかし、現実のイエスは弱々しく、嘲られ、ののしられ、馬鹿にされ、つばをかけられて、殺されたのです。そして、それを見た多くの人が、イエスから去って行きました。

イエスは現実に生きることを選んだ

 今日の、主の変容の福音は、イエスの神性を示されたできごとが書かれています。
ペトロはそれを見て、「仮小屋を建てるので、それに入って下さい。」とイエスに言います。ペテロは、イエスを仮小屋に閉じ込めようとしたのです。この山の上に留めようとしたのです。しかし、イエスは拒否しました。仮小屋にも、山の上にも閉じ込めることはできませんでした。
イエスは現実のゴタゴタしたやっかいごとの多い、愛するのが難しい人のいる現実に戻って行くのです。

信仰は“自分のイエス”を捨てていくこと

 信仰は本物のイエスに、現実のイエスに出会っていきことです。
それは、自分の作ったイエスを捨てていくことです。一人ひとりが、今日のイエスを捨てて、もっともっと深いイエスに出会っていくことです。今日は、昨日のイエスを捨てて、もっともっと深い、今日のイエスに出会っていく。明日は、今日のイエスを捨てて、もっともっと深い、明日のイエスに出会っていく。明後日は、明日のイエスを捨てて、もっともっと深い、明後日のイエスに出会っていくことができますように。

H22.8.6(文責 Y.T)