生きがい… ヤマアラシのジレンマ?
ヤマアラシのジレンマという言葉があります。
2匹のヤマアラシが出遭いました。2匹ともぬくもりを、愛を求めていて、近づきます。
すると、双方の針で突っつきあい、痛くて離れる。また近づくけど、痛んでは離れ、また近づいて痛んでは離れ…。
求めているけど、得られない。ぬくもりを求めているけど、得られない。
人間は温もり、生きる意味を求めている、でも得られない。
求めても得られない生きがいーそれが私たちの生きがいかなと思います。
喜び≠楽しいこと
インドのマザー・テレサの修道院を訪ねた時のことです。
聖堂にはマザー・テレサのお墓があって、その周りでミサをします。
日本からも青年達がよくボランティアに行っています。キリスト信者でない人も多いです。
そこで、一人の男性の話が話しかけてきました。彼は、こんな話を聞かせてくれました。
自分は東京で楽しい生活を送っていて、不満もなかったが、よく考えてみると、何か心の奥底が満たされていない自分に気づいたんです。
その頃、友人がカルカッタのマザー・テレサの所でボランティアに行って帰って来たら、何かイキイキとしていたので、彼に勧められて、来てみました。
そうしたら、何しろ汚いし、臭うし、路上の倒れている人をリヤカーに乗せ「死を待つ人の家」に連れて帰るのです。
2日目には帰ろうと思ったけど、折角来たんだからと思っているうちに、何日か経っていました。
そして、日が経ったある日の夜、ボロボロ、クタクタになって自分のベッドに横たわった時、ジワーッと喜びを感じたんです。神父さん、喜びと楽しいことは違うんですね。
「神父さん、喜びと楽しいことは違うんですね。」
彼は、東京での生活で楽しいことは殆ど手に入ったけど、その時、心の底が満たされていない、喜んでいないことに気づいたのです。
インドに行って、彼は求めた訳ではないです。
ただ苦しむ人に与えて、与えて、与え尽くした、その時、ジワーッと湧いてきた。それだけです。
日本ではなかなか感じられないことでしょう。
どこから喜びが?
今日、これから洗礼式があり、その後で、御聖体をいただきます。
御聖体を受ける意味は何でしょうか。
私たちが御聖体をいただいて満たされてよかったではないのです。
イエスの体をいただいた私たちが、イエスの体に変えられて、私たちを誰かのために捧げた時喜びが湧いてくる。
それが御聖体の意味ではないでしょうか。
イエスの喜び
復活のイエスだけを切り取って見つめても意味がありません。
十字架のイエスを見なければ、復活のイエスを見る意味がないのです。
尽くして、尽くして、尽くしきった、だからこそ復活のイエスには喜びがあります。
それは、尽くして、尽くして、尽くしきったイエスの勝利の徴です。
私たちもイエスのようにどんなことがあろうと、苦難があろうと、捧げ尽くす、その道を通ってこそ私たちは復活のイエスに出会えるのです。
(文責 Y.T.)
主の御復活おめでとうございます!