愛のつまづき
今日の福音も「愛・愛・愛しなさい…」ゲップが出るほどですね。
聖書は本当に「愛」が多いんです。
私は神学校のとき、この「愛」につまづきました。
いい人や好きな人は愛せるけども、悪い人や嫌いな人は愛せない、こんな自分が神父になるなんていいのだろうかと悩みました。
腸する
ある神父様が、「聖書の中で『憐れに思い』とか『気の毒に思い』とか『かわいそうに思い』などその状況によって別な言葉に訳されているけど、原典のギリシャ語は全部同じ『スプランクニゾマイ』という言葉が使われていて、これは『腸する』と直訳される。
つまり、『腸が突き動かされる』というような意味です。」と教えてくれました。
確かに、イエスは上の立場からから助けてやるとか、愛さなければならないから愛するとかではないです。
ルカの放蕩息子のたとえ話のお父さんが「憐れに思い、走り寄った」のも、善きサマリア人のたとえ話の「憐れに思い」も、イエスが一人息子を亡くして泣いているナインのやもめと出会って「憐れに思って、息子をやもめに返した」のも、『腸が突き動かされた』からです。
愛する人になりたい
私たちに、神のような『腸が突き動かされる』愛があるでしょうか。
イエスの愛で愛するのは難しいです。
いつも、誰に対してもあるとはいえません。
私たちは、まず自分が神の『腸が突き動かされる』愛で包まれていることを理解することから始まるのではないでしょうか。
何があっても、自分がどんな状態であっても、神のその愛であいされている、だから私も少しでも『腸が突き動かされて』愛する人になりたいと望むことが信仰の歩みだと思います。
そして、イエスを眺め、祈り、イエスのように愛する人に一歩一歩成長していきましょう。
(文責 Y.T.)
☆聖書箇所
放蕩息子のたとえ話;ルカ福音書 15章11〜32
善きサマリア人のたとえ話;ルカ福音書 10章25〜37
ナインのやもめの息子;ルカ福音書 7章11〜17