復活節第3主日(A年) *ルカ 24・13-35 (2011.5.8)

復活のイエスと出会う

救い主探しで変わった村の話

小さい頃に読んだ本が記憶に残っています。それは、次のような話でした。  

ある所に小さな村があって、村人たちは皆仲が良くて、いつも和気藹々と助け合い、平和に暮らしていました。
ところが、ある時、何かのきっかけで、仲が悪くなり、いがみ合い、罵り合い、悪い雰囲気になりました。村長は、心を痛めて、どうにかしたいものだ、何とかして仲良かった昔の村に戻りたいと、考え悩みました。

そんな時に、どこからともなく一人の旅人が村にやって来ました。その旅人に村長は自分の悩みを打ち明けました。
すると、旅人は「村長さん、実は、この村にはメシアがいるのですよ。救い主がいるのですよ。」と言って、旅立って行きました。村長は不思議に思い、友だちにこの話しをすると、たちまち「この村にメシアがいる」という噂が広まりました。

それからは、村中の人が「いったい誰が救い主なんだろう?」「誰がメシアなんだろうか?」と、救い主を探し始めました。「もしかしたら、いつもガミガミ怒ってるあの爺さんが救い主かもしれない。うるさい爺さんだけど、言ってることをよく聞いてみたら、本当のことを言ってるし…。」「もしかしたら、あのお喋り好きのおばさんかもしれない。いつも、お喋りばかりしているけど、何だか周りを明るくしてくれるから…。」「もしかしたら、あの女のお乞食さんかもしれない。通ると、子どもたちに石を投げられたり、バカにされたりしてるけど、でも、あの女の人はいつもじっと耐えているから、救い主かもしれない。」
そんな風に村人が救い主を探しながら考えている間に、村人は変わっていったのです。いがみ合い、罵り合っていた村人が、昔のように仲良く、助け合うように変わっていました。



深い内面に気づくと…

これは、救い主を探そうとして、その村人たちがお互いの表面だけではなく、一人ひとりの深い内面まで見るようになっていった結果でしょう。救い主は、遠くにではなく、近い所にいるのではないかと思います。

私が司祭になるきっかけは、24歳の時に病気で入院し、検査中に急に呼吸困難で苦しくなり、意識も遠のき、死にそうになったときの体験です。
息もできず目の前が真っ暗で、苦しくて、不安で、死にそうだった時に、一人の方が手を強く握ってくれました。目も開けられないので、それが誰なのかは判りませんでした。その方は1時間以上ずっと手を強く握っていてくれました。その人の心が伝わってきました。私は何故か安心し、苦しさも和らぎました。

回復してから、その時の、手を握ってくれた人を探しました。もしかして、あの優しい看護婦さんかな…、もしかしてこの綺麗な看護婦さんかな…。そうではありませんでした。それは、とてもとても怖い婦長さんだったのです。私がよく怒られていた婦長さんだったのです。私は、その婦長さんの表面しか見ていなかったんですね。表面は怖いけど、でも本当は暖かい心の人だったんです。
私は、その方の内面に気づかなければ、司祭を選んでいなかったと思います。


復活のイエスはすぐ近くにいます

エマオへと向かっていた二人の弟子たちは、ずっと遠く、上に、イエスを探していました。でも、イエスはすぐ傍にいました。遠くばかりを見て、救い主を探していたので、見つけられなかったのです。

イエスが二人に近付きます。イエスは声をかけます。そして、イエスは最も親しい交わりへと招きます。イエスが、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いた時に、二人は、イエスだと気づきました。

私たちは、イエスに気付けずにきたのです。遠くばかり、高い所ばかり見ていたから、すぐ近くにいるイエスに気づけませんでした。
この教会の中にメシアがいます。この山形教会共同体の中にメシアを探せなければ、どこにも見つけられないでしょう。

私たち人間は欠点も弱さもあります。一人ひとりの中に、欠点と弱さばかりを見ていたら、メシアに出会えません。イエスに出会えません。
その人の奥底にある悲しみや苦しみ、そして何よりもその人の奥底に生きている愛を見出した時、確かに復活のイエスと出会えるのです。

(文責 Y.T.)