受難の木曜日・主の晩餐 (A年) 
ヨハネ 13・1-15 (2011.4.21)

人間の一生のテーマ 

震災後、時々尋ねられました。

「神様は本当にいるのですか?」
「神様がいるのなら、なぜこんな惨いことをするのですか?」
「神は一体何を考えているんでしょう?」と。 

苦しみは、神がゆるしているのか?
神がいるなら、何故悪があるのか?
何故苦しみがあるのか?

考えても、考えても、答えは出ません。これは、私たち人間にとって一生のテーマでしょう。

貧しいからこそ

 マザー・テレサの話した言葉が残っています。神学生の時に講演会で聴いたことです。

 貧しくて困っている家族がいるというので、その小さい家に行ったら、母親と3人の小さい子どもがいました。数日間何も食べていないので、マザー・テレサは食べ物(お米)を持って行きました。
そのお母さんはお米をもらうと、すぐにどこかに出かけていきました。どうしたのかと思って、しばらく待っていたら、お母さんは帰って来ましたが、米が半分になっていました。
マザーは最初どうしたのか!?と驚きました。
お母さんは「隣の人にお米を半分分けてあげました。隣の家も私たちと同じぐらい貧しくて、食べるものがなくてお腹を空かせてるから。」と、ニッコリ笑って言いました。その時のお母さんの笑顔は、本当に美しい笑顔でした。



痛みを知ってるから共感が湧いてくる

 震災現場にはそんな人たちがたくさんおられます。被災して、愛する人や生活そのものを失い、悲しんでいるのに、今日食べるものもなくて不安で苦しんでいるのに、でも、その人たちは互いに助け合い、支え合っています。自分が大変なのに、人のことを思いやっているのです。

 もし、私たちが全て与えられていたら、何の苦労もないですね。でも、そうだったら、本当の励まし合い、助け合い、支え合いができるのだろうかと考えます。私たちは、自分自身が苦しみを知ってこそ、相手の苦しみに共感できるのではないでしょうか。

 本当の励まし合い、支え合い、愛には痛みがあります。


腰をかがめなければ愛せない

 今日、イエスは腰を屈めて弟子たちの足を洗います。支え合うときは腰をかがめなければなりません。人を愛する時には、腰をかがめなければなりません。イエスは腰をかがめて、人を愛し、支えました。
私たちは、何と、上から人に対しているのでしょうか。上から、愛そう、支えようとがんばる自分がいます。私たちの日々の生活には、必ずといっていいほどに、苦しいことや辛いことがあります。それは逃れることのできない、耐えねばならないものです。一人ひとり、自分の人生の辛さ、悲しみを担わねばなりません。
だから、イエスに倣って、私たちは、腰をかがめて、互いに助け合わねばならないのです。

 これから、聖木曜日の洗足式をします。神父が信徒の足を洗っているのではありません。今、イエスが一人ひとりの足を洗ってくださるのです。イエスの思いを受け止め、イエスとの交わりを深めて、互いに足を洗い合うことができますように。

(文責 Y.T.)




聖金曜日・主の受難 (A年) ヨハネ 18・1-19・42 (2011.4.22)

 

人間の心にあるのは…

 人の心は本来善いものだという性善説もあれば、本来悪いのだという性悪説も言われます。
日常生活が平穏無事なら、善い人でいられるでしょう。しかし、窮極の状況に追いやられたら、私たちは善い人でいられるでしょうか。

 神学生時代に、霜山徳而先生がフランクルの有名な著書「夜と霧」にある話しをしてくれました。フランクルは自分が収容されたアウシュビッツ収容所という窮極の中で生きた人々の生き方を書きとめていました。そこでフランクルが見たのは、人間のエゴでした。
自分さえよければいい、自分さえ食べ物があればいい、自分さえ楽な労働ができればいい…。そういうエゴでした。
でも、それを責めることはできません。

 しかしながら、そんな状況の中で、フランクルは見ました。自分もひもじいのに、自分のパンを隣の病人に半分分け与えている人がいるのを見ました。自分が苦しくても、人に穏やかで親切に接する人を見ました。どんな状況にいても、自分の心を失わない人がいるのを見ました。

イエスを殺したのは

 イエスは殺されました。イエスを殺したのは誰でしょうか。ユダヤ人でしょうか。ファリサイ人や律法学者、またはローマ人でしょうか。
イエスを殺したのは、私たち普通の人間のエゴイズムです。自分がよければいい、自分が…、自分が…という私たちの心の中のエゴイズムによって、イエスは殺されました。


死んだように眠っているイエスから…

 墓の中で眠っているイエス、墓の中にいるイエスは、本当に死んでいるのでしょうか? 死んだように眠っているイエスから、愛という光が輝き出ています。

 今回の大震災で苦しんでいる被災地で、キラリと光る人間の良心を見ることが度々あります。自分が苦しんでいても、人を思いやり、助け合っている方々を見ました。キラリと光る人間の愛の心です。それこそ、死んだように眠っているイエスから輝き出る光、愛そのものではないでしょうか。そして、それこそ、イエスが伝えたかったことではないでしょうか。私たちは、そのイエスの愛を見つけたでしょうか。

一人ひとりが、本当に、

イエスの愛を見つけられますように。

一人ひとりがイエスの愛をつかめますように。

そして、つかんだイエスの愛を、

日々の生活の中で生きられますように!

(文責 Y.T.)