灰の水曜日≪四旬節≫
(A年)マタイ6・1-6、16-18

今日は灰の水曜日です。今日から四旬節に入ります。

四旬節とは、祈り、節制、愛の業をする時と教えられていて、祈り、節制、愛の業を今まで以上にしようと考えます。
でも、四旬節の40日間だけ精一杯祈り、節制、愛の業をして、それだけでいいのかな?と思います。

祈りのうちにコックリコックリ…

私は神学校に入る前、時折教会に来ることがありました。すると、よくHさんをみかけました。Hさんは、協会の草取りやお皿洗いを一生懸命しておられました。そして、草取りや皿洗いの後、この聖堂に来て、チョコンと座っていました。
私は、その姿に関心を持ち、Hさんは何をしてるのかなと、眺めるようになりました。すると、彼女は、ここで、座って祈っているけど、いつの間にかコックリコックリ居眠りするのです。私は、その姿が大変美しく見えました。一生懸命何かして、その後、疲れて、ここに来て、祈っているうちに眠ってしまう−その姿が本当に美しいなと印象に残っています。
力んで頑張って、頑張って、何かして疲れるのではなく、自分のありのままでいて、神の前にいられる。これが信仰の在り様ではないかなと思います。


「人に見せてはいけない」

今日、イエスは「人に見せてはいけない。」と何度も言われます。確かにそうですね。
愛、祈り、断食も「見せよう」とした時に、それは変質してしまいます。自己顕示というものに変質します。祈り、節制、愛の業は、もっともっと自然にするものです。
もっともっと自然な信仰でありたいです。

信仰の極意

2〜3年前に、ある方からいただいた色紙にこうこう書いてありました。

“人 みるもよし
  人 みざるもよし
   我は咲くなり”

 これが信仰の極意でしょう。「人が見ても、見なくても、私は神の前を歩みますよ」という心です。人がどうこうではなく、ありのままの自分で、自然にできる祈り、愛の業でありますように。

(文責Y.T.)




灰の木曜日(A年)ルカ9・22−25 2011.3.10

 今日、イエスは私たちに「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われます。日々、自分の十字架を背負うとは、どういうことでしょうか。それは、自分を神に委ねることです。人生の歩みで、いやなこと、苦しいこと、あって欲しくないこと等にぶつかります。そういうときに、それを避けず、逃げず、背負い切る覚悟が、自分を委ねている証しではないでしょうか。

(文責 Y.T.)




灰の金曜日(A年)マタイ9・14−15 2011.3.11

 

ヨハネの弟子たちがイエスに「なぜ断食しないのですか。」と言っています。

『断食』とは痛みだと思います。肉や何かを我慢したから断食ではないのです。日常生活の中には、仕事、人間関係、病気、苦労等々いろいろな痛みがあります。それから逃げずに、しっかりと受け止めて、背負って生きていくことが、真の『断食』です。

この四旬節の間に、「花婿が奪い取られる」というような痛みも来るかもしれません。そういう痛みも、神に委ねて、背負っていけますように。  

(文責 Y.T.)




四旬節第2主日(A年)マタイ17・1‐9 2011.3.20

 3月11日の大震災から、9日経ちました。被災した方たちにとっても、私たち、そして日本中の人にとっても、未経験の期間でした。被災者は、想像つかないくらいに、大変な思いをしておられるでしょう。
被災地で、命がけで生きておられる方々、命がけで働いておられる方々を思い、私たちは命がけで祈りましょう。

被災者と共に

山形でも、震災の影響は出てきています。火曜日に、大阪の方から電話があり、多賀城で被災した母子の支援を依頼されました。「今、やっと、山形行きのバスに乗ったから、お願いします。」と言われたので、駅に迎えに行きました。二人は心身ともに疲れ果てている様子でした。大阪の実家に移動できるまで、宿泊はオタワ修道院に頼みました。母子は、インフルエンザにかかっており、こちらの病院で通院治療もしました。やっと、昨日に飛行機がとれて、大阪に帰りました。夜、到着したという知らせの電話が来た時、ほとんど声にならない声でした。
昨日、その親子を飛行場に送って行って、帰ってきたら、みこころの園(特別養護老人ホーム)から電話がありました。ホームに受け入れた被災したお年寄りのお一人が無くなったので、お祈りして下さいという依頼でした。すぐに、お祈りに行きました。
山形にも今後大きな波紋が来ることは予想できます。

カリタス・ジャパン

カリタス・ジャパンの菊地司教様、谷司教様とスタッフが山形に来ました。山形の教会を被災者避難の拠点にすることになりました。3か所で被災者を受け入れることになりました。今の時点では、何時来られても良いように準備をしつつあります。一番大切なのは、皆さんが、“どうぞ、来て下さい”という気持ちです。いらしたら、温かな大きい心で迎えてください。ホーム・ページに出した通り、山形教会に20名、新庄教会に30名、長井教会に20名受入れ、新庄教会は外国人の方々を迎える計画でいます。山形教会は、カトリック教会として被災地に一番近いので、山形教会を被災者支援のベース・キャンプとしたいという意向があり、もう既にボランティアがここを経由して被災地に入っています。また、仙台からの物資調達の依頼が来ています。これからも皆様のお力を借りることになりますので、どうぞよろしくお願いします。


誰かのために生きる者へと変えられる時

この震災を東京都知事は「この津波をうまく利用してだね、我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思う。被災者の方々、かわいそうですよ」といいました。天罰という言葉は、後で撤回しましたが。絶対に天罰ではないと断言します。しかし、この天災を通して、私たちは何かを取り戻さねばならないとは思います。それは、我欲から離れることでしょう。自分が良ければいいという自己中心、自分の思いが一番という我欲を捨てて、人とのつながり、心の触れ合い、他社の善を大切にして生きることです。それは、簡単なことではありません。そのような生き方へと向きを変えるのは楽でなく、難しい事です。そんな私たちに、今変わることのできる一つの機会が与えられました。今こそ、我欲でなく、誰かのために生きる、いや、生きざる得ない人へと変えられますように。

恐れるな

「恐れるな。」今日のイエスの弟子たちへの、そして、私たちへのみ言葉です。

「どんなことがあっても恐れるな。私がいつもついている。だから、恐れるな。」

(文責 Y.T.)