片手のないイエスの呼びかけ
司祭になって、22年が経ちました。
時折不安を感じることがあります。一生懸命司祭としてやっているけど、本当にこれでいいのかな…と不安に思うことや、毎日慌しく仕事をしているけど、時々孤独になることもあります。そんな時は一人で山や静かな修道院に行って、2〜3日ボーとするのが一番良い薬のようです。
去年疲れていた時に、ある静かな修道院で2〜3日過ごしました。
そこの小さい聖堂でボーとしている時に、何気なく十字架のイエスを見上げました。そのイエスは不思議なことに片手がないのです。アレッと思ってみていたら、側に
「わたしは世を裁くためではなく、救うために来た。
あなたが、わたしの手になって人々に仕えなさい。」
と書いた紙が置いてありました。再び、片手のないイエスを見上げ、「わたしは世を裁くためではなく、救うために来た。あなたが、わたしの手になって人々に仕えなさい。」を聴いた時、本当に励まされました。そして、涙が出てきました。
そのイエスのメッセージは、私にだけではなく、皆へのメッセージでしょう。私にはそんなことは荷が重くてできません、そんな能力はないのですと思うことが、しばしばあります。しかし、人間の中で完全な者は誰一人いません。神に従うとは、不完全なこの自分を神に差し出すことです。
“弱さもあり、不完全であり、能力のない、小さい自分だけど、この私を神に捧げます。”それが、神に従うことです。
イエスの洗礼とは
今日、イエスはヨハネからヨルダン川で洗礼を受けます。神の独り子イエスは洗礼を受ける必要はないはずなのに、ヨハネから洗礼を受けられました。このことによって、イエスは、自分を差し出すこと、委ねること、従うとは何か、示しました。自分を捧げる姿を示しました。
洗礼は、イエスの呼びかけに応えて自分を捧げること
洗礼を受けるとは、キリスト教会の一員になるというだけではありません。もっと深い意味があります。神に自分を捧げることに「はい」と応えるのが、洗礼です。
一人ひとり、自分の洗礼を思い起こしましょう。そして、どう歩んできたか、振返ってみましょう。「はい」と応えて、不完全で弱さのある自分を捧げられたこともあれば、そうでない時もあります。
でも、確かにイエスは、今日も一人ひとりに呼びかけています。「あなたの力が必要だ
あなたが私の腕になって、人々に仕えなさい。」
H22.1.9(文責 Y.T)