年間第27主日(C年) ルカ17・5-10 

祈れない時も、祈られている

 重い病気の方やお年寄りをお見舞いすると、
「神父さん、もう私は力もなくなって何にもできないんですよ…。」「こんなになって…何もできなくなってしまった」と言われます。
大きな苦しみや重荷を負っておられる方の口から「何もできないんですよ」といわれる時、「何もしなくてもいいんですよ。でも、祈りはできるでしょう。」と慰めの言葉をかけてきました。
しかし、よくよく考えると、祈りはそう簡単なことではないのです。

祈りとは案外重労働なんです。

本当にどうにもならないほど苦しくて、人が信じられなくなり、そして神をも信じられなくなっているような時には、祈ることすらできなくなります。祈ろうと思っても、祈れない。そんな経験があります。

 たまたま、そんな苦しい渦中にいる時に、ある教会の黙想指導を頼まれました。断る理由がなかったので、受け入れました。普通であれば、黙想指導の前にはよく祈ります。でも、その時は、苦しくて苦しくて、祈ることもできず、祈れないままに黙想会になりました。
2日間にわたっての黙想会を終えると、その教会のひとりのご婦人が来られて「神父様、あなたはよく祈られる方なんですね。」と言われました。私は、心の中で「イヤ、全然祈っていないんですよ。祈ることすらできない自分なのです。」と言っていました。
しかし、その黙想会から何日経っても、そのご婦人が言われた『神父様、あなたはよく祈られる方なんですね。』が心に残っていました。私は『よく祈られる』を、私が熱心によく祈っていると言われたと解釈していました。しかし、よく考えると、この言葉は『あなたは、誰か他の人からよく祈ってもらっているんですね』と言われたんだと理解し、確かに!と思いました。

信仰を増してください

 今日の福音で、使徒たちが、「わたしどもの信仰を増して下さい。」と言っています。『わたしの信仰を増してください』とは、どういうことでしょう?私が一生懸命祈って、善行をして、自分の力で神に近付くことでしょうか。それもあるでしょうが、誰かがわたしのために祈ってくれていることを確信することこそが、信仰を増すことではないでしょうか。皆、知らないところで、きっと祈られているでしょう。
でも、中には「誰も私のために祈ってくれている人なんていませんよ。」と言われる方がおられるかもしれません。『誰も私のために祈ってくれている人なんていません。』それはイエスの言葉ではないでしょうか。イエスこそ、そう言えるのです。『誰もわたしのことを守ってくれない。祈ってくれない。』イエスは確かにその通りでした。皆から嘲られ、唾かけられ、殴られ、鞭打たれ、その上 3年間生活を共にした弟子達からも捨てられ、最後には手足に釘打たれて十字架上で殺されました。そのイエスこそ、誰からも祈ってもらえていませんでした。そのことがイエスにはよくわかっていました。
しかし、イエスはこの一つだけは、わかっていました。『天の父だけがわたしを愛し、私のために祈って下さっている』ということだけは確信していました。それが、からし種一粒の信仰です。イエスはそれを心から離しませんでした。

このイエスを見つめ、近付きましょう。
イエスだけはわたしのために祈り、わたしを支えてくださっている。
天の父はわたしを愛し、支えてくださっている。
この確信がからし種一粒の信仰です。これを心にもち続けていかなければならないのです。そうすることによって、信仰が増していくでしょう。

H22.10.3(文責 Y.T)