・復活節第三主日(ルカ24・35-48)


「謝ってすむことと、すまないことがある」

「ごめんなさいですめば、警察はいらない」

胸を刺されるこうした言葉を浴びせられる危険は、長い人生のなかでもめったにない。

イエスの弟子たちは、先生が十字架上で処刑される段になると、われ先に逃げ出した。

師と仰ぎ、三年もの間寝食を共にして親しく教えを受けたそのイエスを、彼らは土壇場で見限ってしまった。

人から言われるまでもなく、自分でも痛感する。
裏切ってしまったというこの現実を・・・・・。

この時の弟子たちには、文頭の言葉が痛烈に胸を突き刺したに違いない。

「自分たちも捕縛されるかもしれない」                                  
「イエスのように十字架刑に処せられるのではないか」            
こうした恐怖感が、師を裏切るという行為に弟子たちを走らせたのだろう。

日を追うごとに、彼らの心は師を裏切った罪悪感、申し訳なさにさいなまれていったに違いない。ふがいなさ・弱さ、みっともなさに身を揉(も)み、涙しただろう。  
あれほど世話をいただいたというのに・・・・・。

思い出されるのは、生前のイエスの穏やかな笑み、愛情と慈しみに満ちた言葉、しぐさの数々、そして食卓を共に囲むたびに、温かく満たされた自分たちの心・・・・・。

いつの世でも、裏切り者への報酬は、恨み、呪い、仕返しである。

今、弟子たちの心を脅かすのは、ユダヤ宗教当局が放つ追ってではない。

むしろ、師を裏切ってしまったことのふがいなさ、情けなさ、さらにはイエスが放つだろう怒りと呪いであった。

そんな彼らの前に、よみがえりのイエスは現れる。 
園丁の姿で。旅人の姿で、湖畔を散策する人の姿で現れる。
そのたびイエスは、ふつう一般の裏切られた者の姿とは異質である。

「あなたがたに平和 !」と親しくあいさつする。 

だれがおののかずにおられようか。 
それはまず、死んだ人がまだ生きていることへの驚きではなかった。
裏切られた者が、裏切った者をゆるす現実。
裁かずにいる現実。呵責の無念さや、 おのれの愚かさに泣く者にやさしく対応する人がいるという現実。

こういう言葉を差し出す人がいる現実への驚愕(きょうがく)であった。

「あなたがたに平和があるように !」

彼らには、これ以上に喜ばしく、同時に恐ろしい言葉はなかったであろう。

目の前のイエスは、手も足もまなざしまでも、あのイエスその方であった。
生前、自分たちをいたわり、貧しさや、 自分の弱さにあえぎ泣く人々にやさしかったイエスが眼前にいる。

「ここに何か食べる物があるか」
イエスの口からはとっぴな要求が飛び出す。
彼らは瞬時に悟った。これはよみがえりのイエスだと。

「さあ、かつてのように食卓を囲み、一緒に食べて、楽しもう。 また一緒に進むことにしょう。安心しなさい。あなたは十分に泣いたのだから・・・・・」                              

こうして弟子たちの宣教活動が始まった。