★キリストの聖体=ミサの本質 6月6日(日)は、カトリック教会では「キリストの聖体」記念日です。 わたしたちの主・イエス・キリストは、受難に向かう前に弟子たちと晩餐をともにしました。これがいわゆる「最後の晩餐」なわけです。 この中で『イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。…」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。…」』(ルカによる福音書、22章17・19・20節)と述べられました。 カトリック教会のミサにおける「感謝の典礼」から「交わりの儀」にかけてはその晩餐の場面を再現するものですが、司祭はその場面にさしかかると御聖体である葡萄酒と、パンの役目をするホスチア(hostia=ラテン語でいけにえの意)を両手で高らかにミサに集まった信徒の前にかざします。 「食べること」は日常生活に欠かすことができません。イエス・キリストは、『「わたしの記念として…』と、人々のために自らを神へのいけにえとして捧げた受難に向かう前に、自分は確かに存在しこの晩餐がおこなわれたということを、御聖体を「飲み、食べる」たびに確信させる機会を与えているばかりか、自らが御聖体となって信徒に食べられ、からだにとりこまれることで信徒の信仰のエネルギーになっておられるのだと思います。
最後の晩餐の場面を再現すること=その晩餐の重要性を知らない者にとっては無意味に見えるようなことですが、カトリック教会にとってはイエス・キリストの存在を実感し、その信仰を新たにするための、ミサの本質とも言える大切な儀式であるわけです。 御聖体をいただくことを通してわたしたちはイエス・キリストによって新たな活力を与えられ、ミサ締めくくりの司祭のことば「行きましょう、主の平和のうちに!」に励まされて、当時の使徒たちがそうであったようにそれぞれの社会生活の荒波に漕ぎだしてゆくのです。 |