★四旬節から復活節へ

 ちょうど季節が冬から春へと移りゆく頃、カトリック教会でも大きな典礼暦の節目を迎えます。

 わたしたちの主・イエス・キリストは各地で宣教したあと捕らえられ、十字架へ続く道のりを歩まれました。
 復活祭の46日前の水曜日(灰の水曜日、2010年は2月17日)からの期間をカトリック教会では四旬節(「40日の期間」という意味で、イエスが荒れ野で40日間断食をしたことに由来)として信者はこの期間をとおして節制と回心につとめ、自分の生活をふり返ります。
 2010年は4月1日が主の晩餐、2日が主の受難の日にそれぞれ充てられ、聖書に記されているとおり受難から3日目の4月4日、キリストは復活し復活の主日を祝いました。

 わが国では4月というと入学式、入社式、転勤、転職などなど人生の節目を迎えて新しい社会生活をはじめる方々も多いと想いますが、各地のカトリック教会でも新しい信者の洗礼式がおこなわれ、当教会でも数名の方が受洗されました。


カトリック山形教会聖堂の「復活のイエス」
 「復活」…カトリック教会ではこのキリストの復活という点に重きを置いています。
 しかし、イエスの受難までは理解できるとしても、その「復活」というとにわかには信じがたいものがあります。
 これには、それぞれの方にいろいろな考え方があるでしょう。
 きっとキリストの直弟子「使徒」たちは、実際にその目で復活したイエスをみたのでしょう。
 彼らの言葉を疑うことなく信じればよいのか?そもそもイエスは人間であり神でもあるわけだから常識を当てはめること自体誤っているのか?

 聖書によればイエスは復活したあとしばらく弟子たちと過ごし、「天に上げられた」とあります。「私は世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいる」という言葉を残して。

 また、ヨハネによる福音の冒頭には「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。神は言葉であった。」とあります。

 復活したイエスはすでに天の国に入られ、神の右の座に座ってわれわれをご覧になっておられるのだと思います。だから、イエスをいまこの目で見ることができないのは当然です。
 しかし、イエスによって残された言葉は弟子たちから連綿と現代にまで受け継がれ、その言葉は神としていつもわたしたちとともにあり、われわれを勇気づけてくれるのです。

 カトリック教会が大切にしているミサではイエスが受難に向かう前の最後の晩餐が再現されますが、ミサのたびにイエスの死を想い復活を讃えること、とくに四旬節から復活節をむかえたいま、苦難をのりこえたゆえに復活があるということを再認識しなければならないと想います。


 あらたに受洗された方々はもちろん、ほかのカトリック信者も復活したキリストに見守られつつ、また新しい1年を歩み始めるのです。