★記憶に残る四旬節から、復活の主日を過ぎて
教皇ベネディクト16世は著書「ナザレのイエス」のなかで、洗礼について「水はすべてを破壊し無に帰する力を持つ、したがって(洗礼で)水中に沈むということは死を象徴とする。一方、水はいのちの源であり、浄化(過去の汚れから解放)するものであり、これは新しい人生の始まり、すなわち復活である。ヨルダン川の水中に沈み、そこから立ち上がること(当時の洗礼)のうちに、すでに死と復活が意味されていた」「(我々が)洗礼への誘いに従うということは、イエスの洗礼の足跡を踏むことであり、イエスが私たちと同じ者となったことによって、(我々も)イエスと同じ者となる恵みを受けることを意味する」と述べています。
復活ミサの際に行われる洗礼式は、あたらしい信者さんが新たな人生を歩み始めるスタート点であるだけでなく、すでに信者の方々にとってもイエス様の復活を祝うとともに自分たちもまた新たな人生を歩み始めることを自覚するための再スタート点なのだと思います。
亡くなった方々の人数が日に日に増えていくのを見て、信者さんのなかには神へのある種の「不信感」を抱いたかたもおられるのではないでしょうか?
4月17日に当教会で受難の主日ミサを司式された新潟教区の菊地司教様は、その説教の中で「この大災害を経験し、我々は『これは神からの罰なのだ』『やはり神などいなかったのだ』という結論にたどり着きやすい。しかし、聖書をひもとくと『神のなさることは、我々には計り知れないのだ』という結論に達するのだ」と述べられました。
だれも予想していなかったほどの凄まじい規模の地震と津波、想定外の原発事故、どれもが我々の計り知れなかったことだったと思います。
このたびの震災関連で亡くなった方のご冥福をお祈りするとともに、被災・避難生活を送っている方々の健康と、1日も早い被災地の復興をお祈り申し上げます。
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