しかし、ヨルダン川を渡り約束の地に入れば、もはや水やマナは与えられず、自分たちで井戸を掘り、耕して働いていかなければ食べていくことができなくなるのです。ヨシュアはどれだけ、その一歩を踏み出すのに躊躇(ちゅうちょ)したことでしょう。そんなヨシュアに神は語りかけます。

一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄雄しくあれ・・・ うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、神は共にいる。」(ヨシュア記1章5-9節)

 ヨシュアはためらっていた一歩を踏み出します。すると、神が先立っていくかのように、川の水は壁のように立って乾いた川底を渡ることができました(ヨシュア記3章)。まさにエジプトから導き出しモーセと共にいた神と同じ方であるとの証明です。
じつは、イエスは新しいヨシュアです。(「イエス」とはヘブライ語の「ヨシュア」のアラマイ語的読み方、「神は救い」という意味)。この方がわたしたちを新しい約束の地である永遠の命へと導かれました。その一歩を、イエスはご自分のヨルダン川での洗礼で踏み出したのです。ヨシュアと同様、イエスも自分の使命を知り、それに向かっていく時の不安や恐れを持っていたと思います。聖霊がくだり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との呼びかけの、なんと大きな励ましと力であったことでしょう。

 わたしたち一人ひとりにも、人生の中には渡って行かなければならない「ヨルダン川」があります。そのとき、神はヨシュアやイエスに語ったのと同じようにわたしたちにも語りかけ、励ましてくださいます。

 モーセが神に導かれてイスラエルの民とともにエジプトから脱出し、40年間荒れ野をさまよいながら旅を続け、いよいよヨルダン川を眼前に望んだとき、神はモーセを渡らせることはせず、後継者としてヨシュアを任命します。(申命記31章1-3節)

 モーセが、約束の地をすべて見渡して亡くなった後(申命記34章)、ヨシュアの心は、やはり不安に満ちたものでした。モーセほどの預言者は、後にも先にもなく、ヨシュアに彼ほどの偉大な指導者になれるわけがありません。しかも、荒れ野での40年間は、苦しい道のりでしたが、神がメリバで飲み水を与えたり、マナという食べ物を天から降らせたり、守り養ってこられました。

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ヨシュアとイエス
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