主任司祭「千原通明(ちはらみちあき)」(写真左)
助任司祭「楠宗真(くすのきむねまさ)」(写真右)

 岩下神父が神山復生病院を旅立つにあたり、女性患者の代表が送別の挨拶で「神父様、此間の公教要理の時初めて神父様のハワイへご旅行なさることを伺いました時、私共は本当にビックリ致しました。二三日の御旅行でさへお帰りのみまたれますのに、四十何日の御留守!私共はどうして辛抱できるかと思ひました」と語ったのを聞いた時、岩下神父は目頭が熱くなったと述懐しています。

 「・・・熱い滴がしたたるのを覚へた。いとし子等よ。あなたがたを残して行くのは果たしてよいことであろうか。私は心の中で迷はざるを得なかった。自分では気付かなかったが私はいつの間にか大家族の親となってしまっていたのだ。〔後略〕」
(『岩下神父の生涯』281ページ』)

 岩下神父も、ダミアン神父と同様に、ハンセン病患者たちから父親のように慕われていたのがよく分かります。日本にもいた「小さなダミアン神父」の物語が、ここにあります。

 東京教区の岩下壮一神父(1889-1940)は、聖ダミアン神父が帰天した年に生まれましたが、ダミアン神父のことを大変慕っていました。彼自身、1930年にハンセン病患者のために設立された神山復生病院の第6代院長に就任し、51歳で帰天するまでの10年間、身を削りながら奉仕しました。そして彼は、医療環境や患者の待遇の改善のため、1934年2月15日に横浜を発ち、ハワイの、主にモロカイ島を訪問・視察したのです(同年3月3日帰国)。この間、ダミアン神父ゆかりの地を巡礼しながら、現地の患者たちとも交流しました。当時、モロカイ島には47名の日本人移民の患者もいて、大いに親交を深めたそうです(『岩下壮一全集 第8巻』中央出版社1962年に所収の「ダミアンを慕いて」より)。

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モロカイ島を訪れた岩下壮一神父
(H28.5)主任司祭 千原通明