主任司祭「千原通明(ちはらみちあき)」(写真左)
助任司祭「楠宗真(くすのきむねまさ)」(写真右)

山奥にひっそりと咲く桜。誰かのために花を咲かせるわけでもなく、誰に見てもらうわけでもありません。ただ、花を咲かせます。生物学的に虫を引き寄せて受粉を行うためだと説明しては面白くありません。実篤が言おうとしたのは、自分が本当の自分になるという人生の営みの中では、人の目や賞賛を気にすることなく、ただ自分の生を全うすることに努めなさい、ということだと思います。キリスト教的に言えば、花は、人に美しいと言われるために咲くのではない、ただ、神から受けた命を全うするために咲くのだ、ということになるでしょうか。たとえ人は見ていなくとも、神はいつも共にいて、その咲かせた花の陰に隠れた努力や苦労をしっかりと見て喜んでくださるのだ、と言えるのかもしれません。

 しかし、どのようにしたら神が共にいてくださることが分かるのでしょうか。
じつは、花が咲くこと自体が、神が共にいてくださるしるしです。生きること自体が、神の恵みの証しなのです。どんな苦悩の時も、ただ生きる限り、心配はいりません。必ず神は花を咲かせ、わたしたちを生かしてくださるからです。

花が咲く
そこに神がおられる
人が生きる
そこに神の愛がある

いただいたいのちを大切に生きること
それが神を愛することなのです

 武者小路実篤が好んで色紙に書いたという言葉に次のものがあります。

人知るもよし
人知らざるもよし
我は咲くなり

わたしも大好きな言葉ですが、これには上の句があると聞きました。
「あれを見よ/深山(みやま)に桜咲きにけり/ 真心つくせ人知らずとも」と。

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野の花の祈り
(H28.4)主任司祭 千原通明