主任司祭「千原通明(ちはらみちあき)」(写真左)
助任司祭「楠宗真(くすのきむねまさ)」(写真右)

 12月21日マニラに到着した一行は貴国民から友愛に満ちた歓迎をうけ同信の愛の絆のもとに日々を過ごした
 かくして彼は比日両国民の深い友情を築いた
 右近は1615年2月3日マニラでその短い生涯を閉じた(行年63歳)

 右近の一行には、ジョアン内藤やその家族、ジュリア内藤、大友宗麟の娘、朝鮮の貴族の娘マイ・パクなどが含まれていました。
 多くの宣教師を日本へと送り出したマニラでは、日本でのキリシタンたちの英雄的な生き様、殉教の様子などがよく報告されていたので、当時のスペイン人総督やマニラ市民たちが右近たちを大歓迎しました。しかし、厳しい船旅の後、右近は体調を崩し2月3日に帰天しました。そして、右近の葬儀は国葬で厳粛に営まれたそうです。遺骸はサンタ・アンナのイエズス会の教会の内陣に葬られました。

 右近以前にも、多くの商人たちがマニラを訪れ、日本人町を形成していましたが、右近が来てからは日本人キリシタンの町が新たに形成されていきました。現在、その名残はもうありませんが、この右近の銅像をながめる度に、400年前のここに日本人、しかもカトリック信徒の日本人が住んでいたのだとの感慨に浸ることができます。

 さて、いよいよ右近が2017年に大阪で列福されることが決定されました。わたしたちも右近の信仰に学びながら、フィリピンとの交流をさらに深めていきたいと思います。


 キリシタン大名だったユスト高山右近(1552-1615年)の銅像が、フィリピンのマニラ市パコ地区の小さな公園にたたずんでいます。
すっと立った右近が、刀の代わりに十字架を自分の前に携えています。その像の土台の銘には、次のような文章が刻まれています。

 日本のキリシタンの指導者高山右近はこの地プラザデラオに最初の日本人居留地を定めた
 彼はキリシタン信仰の故に追放をうけ1614年11月8日各修道会の神父と宣教師たち並びに約百名の日本人キリシタンと共にルソンに向け長崎を出帆した

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ユスト高山右近とフィリピン
(H28.3)主任司祭 千原通明