落ちてゆくしかない葉の一枚いちまいを、これほどまでに美しい彩りで飾ってくださるのは神さまです。これまでよくがんばったね、と、やさしく神さまが微笑みかけてくださいます。神さまは、美しい紅葉を通して、わたしたち一人ひとりをねぎらい、なぐさめ、また励ましてくださるのです。
晩秋に落ちる葉の、その枝の元には、もう次の年の芽があって、紅葉も終わりの葉は小さな新しい芽に押されて散っていくのだと聞いたことがあります。そして、落葉しても、それが肥やしとなり土となって、いのちをさらに育んでいきます。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)
「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」の葉は、すべてを神さまにゆだねて生きる生き方を示しています。それは、また、終わりなきいのちの
連鎖に与(あずか)ることを意味するのです。主任司祭 千 原 通 明
これは、わたしの好きな良寛の句で、彼の辞世の句とも言われています。自分の生きた人生の光も影もすべて良しとしてゆだね尽くす姿が見えるようです。
葉の形や紅葉の色合いは、葉の一枚いちまい違います。それを「葉っぱのフレディ」の親友ダニエルは、生きた人生によって変わるのだと説明します。
「生まれたときは同じ色でも、いる場所がちがえば、太陽に向く角度がちがう。風の通り具合もちがう。月の光、星明かり、一日の気温、なにひとつ同じ経験はないんだ。だから紅葉するときは、みんなちがう色に変わってしまうのさ。」(レオ・バスカーリア作、みらいなな訳『葉っぱのフレディ―いのちの旅―』童話屋、1998年より)
「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」